U R not alone

NO NEWS NO LIFE WITH LOVE

わたしの『世界』の話。(WORLDISTA PLAYLOG #3)

 

俺を取り巻く世界、マジファック。

そう思っていた人の、世界

 

貴様が世界だ

と歌う世界というタイトルの、作詞作曲加藤シゲアキな2019ソロ曲は、

世界に向かって唾吐くような想いを抱えていた頃の彼も含めた全ての彼自身への、今の彼からのアンサーソングのようにわたしには感じられました。

を抱く覚悟はあるのか、のには、どうしたってTRIPPERの「自分にを向ける人を 抱きしめられる大人であれ」が想起されるから。

QLAP3月号で、

どちらかというとオレ個人を歌った曲

って言っていたから。どちらかと言えば、だけど、

自分の世界をストレートに歌う

って言ってたから。

 

貴様が世界だ。

もしもこの歌詞の部分をMVや読書感想画みたいなものにわたしがするとしたら、洗面台に手を着いて少し前かがみ気味に鏡に相対して、鏡に映る自分の瞳と真っ直ぐに対峙して宣言する姿を描きます。

自分の瞳の中を覗き込んで、対話するように。鏡の中の自分に、全身全霊伝えて激励するように。

もしかしたら、四畳半どころか飛び立つルリビタキも自分の中の記憶を辿った映像で、この歌の言う「世界」は、自分の「中」の世界、脳の電気信号が鮮やかに描き出す、自分の中に描かれる世界、インナースペースなのかもしれません。

レゾンデートルは「存在理由」や「存在価値」と訳されるけれど、注意すべくは、それは周囲に認められたり評価されたりする「意義」ではなくて。

主語は自分。

自身が信じる生きる理由。自身が求める意義。自分の自分による自分のための、収束する光みたいに内へ内へ向かっていく世界。最後には、全ては鏡の中の自分の真っ黒な瞳孔の中に収束する。

そんな風に感じます。

思い通りにいかない日々は、こんなはずじゃなかったと足掻く日々は、時として全世界と闘ってるみたいな気持ちになるけど、少なくとも自分を取り囲む小さな小さな世界は、自分が変われば少しずつ絶対に変わる。心ひとつでガラッと変えることだってきっと出来る。時には周りに影響を及ぼすことだって出来る。自分が変わればそれに付随して変わっていく世界なら、狭義の世界はわたしの映し鏡だ。

自らの求める意義を貫き通す。世間から認められることではなく、相対評価の価値ではない、自己完結する絶対評価の価値。

「貴様」という名のわたしに向けた哲学。

「貴様」という強い言葉は、自分への叱咤激励。

EPCOTIAのブックレットにも大きく写し出された、あの瞳の奥へ深く深く。

 

 

以下ちょっと飛躍し過ぎだなと我ながら思うんですけど、でも忘れてしまわないように書き残しますね。想像することはみちしるべ だし、想像することくらいは何にも囚われずに自由でいたい。いつか読み返すわたしのために。

気分を害される方がおられましたら、本当にごめんなさい。突飛な飛躍が苦手な方は、回れ右を推奨致します。これはあくまでも、考察などではなくわたしの中に浮かぶひとつの心象です。悪しからず…。

 

ルリビタキは、「幸せの青い鳥」と言われるように、雄は真っ青な羽の綺麗な綺麗な鳥。

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世界という歌の中の、ルリビタキ

真っ青な鳥。

アイドル加藤シゲアキがこれまで生きてきた世界の中の、今生きている世界の中の、青。

わたしには、どうしてもある大きな存在が想起されて仕方がありませんでした。

今は違う色を纏い、今はもう纏うことのない、青。

 

でもまさか暗喩とは言えこんなシンプルにあからさまにその色にその意を乗せるはずがない、だってシゲだよ?いや、ルリビタキって表現はシンプルでもあからさまでもないのか?婉曲的なの?でもでもコレは鍵掛けて金庫にしまってあるようなポエミーな日記じゃないんだよ?広く一般公開だからね?そんな公開厨二炸裂、まさか。でもそういうシゲシゲしいの好き。いやいやいや、でもまさか。

そう思うんだけど、だから盛大なこじつけやとんでもない方向へのとんでもなく見当違いな暴走ブッ飛び拡大解釈だと自分でも思ってるんだけどでも、でもその後に続く歌を聴くと、歌詞を反芻すると、戸惑いや疑問や、適切とされる距離すら保てないこと、「強くあれ」と自分に誓いを立てる姿。それは飛び立ってしまったからなのか、近付くことを躊躇するようにこちら側が変わってしまったのか、それとも強くあるために距離を取ることを敢えて選んだのか。

わたしの中に、最早止めることも出来ないくらい勝手に浮かび上がってくる湧き上がってくる心象は、出来事は、存在は、どうしてもそれで。青のその人で。

 

このこじつけゴリッゴリの仮定はそのままに綴り続けますね、すみません。それはまさに周りの世界が引っくり返るほどの出来事だったと思うんです。きっと。まるで世界を再構築しなければいけなくなるような出来事。当時のことを伝聞でしか知らない人間が語るのはスーパーウルトラハイパーアルティメットおこがましいことなんだけど。(だけどわたし、よその沼で、激震に見舞われた経験ならあって。死角から突然思いっ切り後頭部ブン殴られたみたいになって、頭撫でながら立ち上がったら世界がまるで変わってた。どうなってしまうか保つことが出来るのかギリギリの危機的な世界になってて、だからほんの欠片だけなら、ほんの少しのエッセンスくらいなら共感出来るのかもしれない。この自分の庭の中でだけは、そう思っててもいいかな。)

足元からぐらついてガラガラと崩れそうな世界の中で、踏み止まって、踏ん張って、力を合わせて、勝ち取って、進化して、時につまづいて、悩んで頼って支えられて支え合って、また一心に前だけを見つめて、どこかの誰かを支えながら、どこかの誰かに支えられながら、ひたすらに走り出して。

そうして今立っている場所で、ふと改めて辺りを世界を見回した時、ほんとうは世界は映し鏡で、敵だと思ってたことすらある世界は、これまでの自分の軌跡や経験や積み上げて来たもの・積み重ねて来たものの数々で構築されていて。ずっとずっと世界はここにあった。愛も夢も魂も全部全部ここにある。

世界は 心の奥底にある

だって世界は自分だから。

 

それが、わたしの、『世界』の心象です。

想像することがみちしるべって書いたけど、答え合わせも何にもいらない。だって、わたしが受け止めた、わたしの世界だから。

人の数だけ世界があって、人の数だけ正義がある。個々の内に向いた世界は、影響し合うことはあれどそれぞれに不可侵。なら、人の数だけ、千差万別受け止め方があるのも愉快じゃない?って、思うから。